20151228

伊勢ハイキング

 

 
伊勢詣は外宮から始まる。
天照大神が祀られる内宮から参らない理由は、本筋にいきなり入るものではないという日本人の美意識のようなものがあるのだとか。 とは言え、外宮の歴史のほうが内宮より後の時代なのでそれでは話が合わない。 後の時代というのには訳があって天照大神が「自分一人では食事が安らかにできないので、豊受大神を近くに呼び寄せるように」 と天皇の夢に出てきたからだそうである。 
  
そんなことで外宮は豊受大神が祀られている。 この神様はなんの神様かというと食物の神様。 まあそんなことでリアル路線をいくこととなる。  

 
 
  
  
  


食物の神様にあやかり赤福をいただく。
外宮のすぐ前に赤福などあったか?と思えばこちらの開業は2012年末のことだそう。 前回来た時にあったことになるが見なかったのか?記憶にも無い。 


私は赤福に来ると必ずニ盆注文する。 
もう子供の頃からの習わしのようなもの。 でもこのこし餡と餅のバランスは好きではない。 餡が多すぎるのだ。なので餡を盛大に残してほんの少しの餡が付いた餅を食べる。 食べ残した餡の残骸は実にみっともないのだけれど伝統の域に達しているので仕方あるまい。


話は変わるが、湯のみ茶碗に書いてある文字 ”狗名” が何のことか聞いたことがある。
答えは、右から読んで ”名物” であった。 恥ずかしい。
   

  


いきなりな写真。
ここは伊勢神宮内宮の裏に聳える朝熊山への道。 山頂には臨済宗の金剛證寺がある。 その昔この山にはケーブルカーが運行していたり、この非舗装路にバスが運行していた時代もあるそう。 
朽ちた古い車、地蔵、石標が沢山。   
 
 
 
  
  
  
  
 


  
  
  

山頂までわりと掛かった。 
レストハウスでは名物伊勢うどん。 だけど老舗にあるような煮込んだクタクタじゃなくレトルト麺のあかんやつ。 と言うか本格的なヤツのほうがあかんやつで、このレトルトはわりと普通に食べられる伊勢うどん。  

 
  

  
   


山頂には池の浦湾、鳥羽を見下ろす足湯がある。
韓国人がガヤガヤ言うとるし、お湯はカルキ臭かった。  


日本最古の神社、奈良の大神神社が神殿を持たずその裏山=三輪山をご神体としている様に、伊勢神宮も裏山である朝熊山と何か関係あれば、それなりの登りがいもあろうがそういう訳にはいかない。 もっとも、山自体がご神体であったなら三輪山同様一切立ち入り禁止になっている筈なのだけど・・・ 




 
旅館に戻る。 登録有形文化財の”麻吉旅館” 
江戸時代五大遊郭だった伊勢古市。 戦争末期には伊勢は空襲にもあった、そして遊郭地帯は高台にあって水の便が悪い場所で火事が起きると火を食い止めることが困難だったとか。 そこにあって一軒だけ昔の面影を残す楼閣 ”麻吉旅館”  1782年の古市街並図に”麻吉”の名があり創業は200年以上とのこと。

  


  
 

   
  


  


傾斜地形に複雑に長きに渡り増改築を繰り返された宿。
旅館の内部は迷路のような複雑さ。
食事は寄せ棟造り最上部の聚遠楼のすぐおとなりで。 
やはりこのような場所に来たからこそこの宿。 素晴らしい。



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20151224

渥美半島より伊勢



新幹線は豊橋で降りた。  その先は渥美半島を西に向かった。
渥美半島を走ったのは2度目で前回は北岸をそして今回は南岸。 正直な所、前回渥美半島北岸を走った印象は海沿いでも何故か風光明媚でもなく車が多い只の道。 そして今回、南岸を走っている際にふと見つけた渥美サイクリングロードへの看板。 その看板に従い海に向かって降りていった。 
 

 
  
 

  
 

  
 
なにこれ、素晴らしい。
真っ青な海に空。 爽やかな空気を鼻腔に感じていたらあっという間に渥美半島の先端伊良湖に到達した。


左に見えるは神島、そしてその先にうっすら見える陸地は紀伊半島。 そう、あっちに船で渡るのは2年前と同じだけど、アプローチがこんなに素敵だとまるで違う印象になった。


 
   
  
  
  
 

   

伊良湖ではお約束の大アサリを食し、伊勢湾フェリーに乗ればわずか一時間ほどでそこは鳥羽である。  鳥羽からは前回雨で走ることが出来なかった念願の伊勢パールロードへ向かった。
  
  
 
  

   


地図を見ると鳥羽から志摩、そして紀北にかけてはさまざまな形の島や半島が複雑な海岸線を作っている。 河川が侵食され細長い湾と半島からなる所謂リアス式海岸である。 リアス式海岸であるからそこを走るパールロードは道は山と海の両方を感じながら走る。 道から見える入江は波穏やかで、牡蠣イカダが浮かび牡蠣の養殖が行われている。 道沿いには名物の焼き牡蠣を食わせる店がいくつもあって炭火の煙が登っていた。
  

  
  
 
  
  
  
   
  
  
   
  

こうして写真を見るととってもいい所を走った様に見える。 
写真は当たり前だけど絵になるところばかり撮るからほぼ全てに海が写っているのだけど、実はパールロードはわりと内陸寄りを走っていて海はそれほど見えない。 実際走った印象は山を感じること7割、海のそれは3 割。 リアス式海岸のお約束で当然アップダウンばかりで景色を楽しむというよりインターバル連の様相。 更に悪いことには車やバイクがとても多くて自転車には向かずまた来るかといえば2度目はない気もする。 このパールロードを走ることは2年越しのリベンジだったけど、実際走ってみないと雰囲気はわからないし納得もできまい・・・ 
 
 
 


冬の日は釣瓶落とし。 
伊勢パールロードを走りきればもう夕暮れ。
夕食は鵜方のレストラン宮本
ここのシェフは来年サミットが開かれる志摩観光ホテルのメインダイニング、ラ・メールにおられた方。 少なくともこの海の幸カレーは志摩観と瓜二つの味でリーズナブルなプライスで戴ける。 う~ん美味い。

 
 
Related to:
http://feticizm.blogspot.jp/2014/04/blog-post_27.html
http://feticizm.blogspot.jp/2014/05/classic-hotel-shimakan.html
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20151216

Loire cycling


 
フランス最長の川、ロワール
そのロワールは何で有名かと聞けばワイン、そして古城巡りという。 
そして、ロワール川沿いにはサイクリングロードが巡らされ、自転車で巡るにはぴったりとある。
 
 
ブロワ駅前で早速借りた自転車はGITANE。 私の自転車熱第一波はベルナール・イノーがツール・ド・フランスで連勝していた時期なのでこのフランスブランドGITANEは馴染み深い。 借りると川に向かって下りロワール川を渡る。 後ろを見返すとブロワ城とサンニコラ教会。  


それにしても、古城めぐりというが何故このロワール川沿いに城が多いのか? それは、15世紀までは現在のパリを含むフランスの北部はイングランド領で、この辺りは英仏100年戦争鬩ぎ合いの場所だったと知った。  後ろに見えるブロア城はフランスを勝利に導いたジャンヌ・ダルクが1429年イギリス人に向けて軍を出発させる前に、ランスの大司教から祝福を受けた場所。 フランス人にとってはとても重要な場所なのかもしれない。
  
  
  
   


  
  
  
  
  





   


   
  
   
   
  
  
  
   
 
  
 
 

    
やっぱり日本がそうであるようにフランスも田舎がいい。 
でも、そんな田舎道を宛てもなく走ったわけじゃない。
ロワールの城の中で一番壮麗な城といえばシャンボール城だとどのガイドブックにも書いてあって、その上、道脇には自転車推奨ルートとしてシャンボール城への道がここかしこに掲げられている。不案内なフランスで川沿いばかりじゃ嫌だとか、我儘まで言う私がそこまでしてもらってシャンボール城向かわない理由はなかった。 

    
 


シャンボール城に聳える塔が彼方に見えてきた時は感動した。
パリの凱旋門もそうだが、ランドマークを望む軸(=道)を据えられたランドスケープデザイン。 弓状に起伏した道路からシャンボール城の塔の先端が浮かび上がってくるかのように現れるのである。
   
 
そういえば日本にもシャンボールと名のついたフランス料理店が幾つもある。 きっとシャンボール城に行ったこともないのにシャンボールと店の名をつ けているシャフも多いに違いない。 あのフレンチの鉄人、酒井は行ったこともないのに店名にラ・ロシェルと地名を付けている位なのだから。 私はと言え ば、シェフでもオーナーでもないのにシャンボール城に来たのである。  だから?とは言わないで欲しい。

   
 



  
  
  
  
  
フランスの王様は、アンリだとか、シャルルだとか、フランソワだとか、ルイだとか・・・ しかもフランソワ1世の子供が2世ならわかるが、それが名前が変わって何故にアンリ2世?と。
 

それはさておきこれだけ壮麗な城が、もともとはフランソワ1世が狩猟用に建てたものだとか。 結局は完成したのは子供のアンリ2世時代になってからなのだけれど。 この時期イタリア戦争に勝利し北部イタリアを手に入れたフランスに嫁いたのがメディチ家のカトリーヌ・ド・メディシスだと言うくらいは私も知っていた。 そう、イタリアルネッサンスの息吹がこのフランスに流れ込んだのである。 事実、このシャンボール城の二重螺旋階段はあのレオナルド・ダ・ヴィンチが設計したものと言われている。

  
 

 
最後に。
あのイタリアルネッサンス期に活躍したレオナルド・ダ・ヴィンチが人生の最期をこのロワール河畔のアンボワーズで過ごしたことをはじめて知った。 このアンボワーズ城の礼拝所には王の客人として十分な年金をもらい晩年をここで過ごしたという レオナルドダ・ヴィンチの墓があった。
 
 
あらためてダヴィンチについて調べるなんてことはない筈で、こうしてここに来なければ知らなかったこと。 

 
 
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20151211

Qualite de Vie

  
 
  

 
サイクリング途中ロワール河畔で蚤の市が開かれていた。
売りだされている品を見るとどれも酷いもんである。 ご覧のように対ではなくタイヤ1個とか、どう見ても中国人が日本風に描いた絵とか、カセットデッキとかボロボロの服とか恥ずかしげもなく売られている。 私がこのレベルの物品が売られているのを日本で見たことがあるのはアンタッチャブルゾーンの大阪西成区釜ヶ崎くらい。 じっさい、靴が片方だけとか、サイズが左右違うから大特価とか見かける。 日本人は恥の文化だからか?ややもすればこのレベルのものを売ること自体が自分の被認識レベルを毀損しかねないとも感じる。 

  
でもその感覚で見るとどうもイメージが違う。 生活に困って売っている風でもなく、人の良さが滲み出ていて騙して売りつけようなど言う気配などみじんもない。(パリの蚤の市はそんな感じありありでしたが)  タイヤや壺を買うはずもないどう見ても旅行中の東洋人が自転車で通りかかれば話しかけ、最後には笑顔で”bon voyage !!” ただコミュニケーションの場としても楽しんでもいる。皆がそうだった。 日本人がフランスを語るときよく”流石おフランス” 等というけれどあの日本人の多くが持つであろう少し斜に構えたフランスのイメージとはまるで違っていた。

   
この話をしたフランス通の人が”Qualite de Vie(カリテ・ドゥ・ヴィ)” と言う言葉を教えてくれた。 すなわち”quality of life” = 生活の質。 フランス人はこれを大事にすると。 お金など普遍的な価値ではなくあくまでも自分基準で心地よく、リラックス出来る環境に身をおくことにとにかく拘る人が多いと。  そもそも日本人の特徴として言われる”恥の文化”は他人から見た自分、相対化した自分から来るもの。 こういう文化圏に生まれた日本人にはこの自身の絶対的価値が前提の”Qualite de Vie” と言う概念は憧れまいか? 私はとても憧れる。 
 
 
そして今日”人生はカリテ・ドゥ・ヴィ” だよ。と人にしたり顔で言ってしまった・・・ 早速”カリテ・ドゥ・ヴィ” と言っている自分を演出するという相手との相対化を行ってしまったのだ。
 
 
 
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20151119

Cadillac Eldorado


 
サイクリング中、ロワール川湖畔Saint-Dyé-sur-Loire
フランスの古い教会の前、その場の空気を完全に支配しているかのように佇むCadillac Eldorado
ヨーロッパの教会とアメ車の意外な組み合わせ、掲げられたフランス国旗と同じブルーと白、想定外の驚きがあった ・・・ とにかくアメ車がこれほどかっこ良く見えたことはない

 
 
そういえば、ヨーロッパでアメリカ車を見ることはほぼ無い
それもその筈、アメ車が正式にヨーロッパに輸出されたのは1990年台半ば以降で、それまでは並行輸入車しかなかったそう。 ましてやクラシックカーと呼んでもいいほどのキャデラックなど・・・
この車が、新車から乗り継がれているのか後年になって輸入されたものなのだろうかと興味が湧いてきた。 と言うのは残念なことにエンブレムまできっちりと確認しなかったのだけれど。 この年代のCadillac Eldoradoには5.7l のディーゼルエンジンを搭載したものがあると知ったから。 フランスではディーゼルエンジン車の普及率が高く70% にも達しており、好事家が後年わざわざディーゼルを選んでクラシックキャデラックを輸入したことも考えられるのかなと ・・・  

 

 
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20151114

Japanesque



嫌いだったパリが好きになった理由。 velib' だけじゃない
それはフランス人と接する時、度々感じる日本に対する認識の深まり。
それは昔のfrom Japanと言った時の反応とは明らかに違う。 
 

モンパルナスの女性駅員など、日本のパスポートを出した時の反応が ”Oh cool!”  フランス人に”Japan=cool” と言う認識があることに驚きである。 当然そんな人もいてもおかしくはないけれど、この例だけではなく日本に対して好感を持っていると思われる人に毎日欠かさず会った。 


魚専門のレストランでは給仕が魚の説明で”いとよりの海藻バターソース” とかいう始末。”鯛”と言わず何故に”いとより”ってなるやん? 他ではメニューが読めず困っていたら”私、京都に住んでました”と言って日本語で説明を始める隣席のオネエチャン、 蚤の市ではミャンマーの古物の説明でピューマとジャガーの違いを辿々しい日本語で説明しようとするオッサン、”セーラームーン”や”神の雫” なんて日本語題名で話しだす子もいた。 ”ルイヴィトンに並ぶけったいな東洋人達” は今や日本人ではなく中国人に取って代わられ、日本の文化的国家としての認識はかなり上がっていることを認識した。

  
  
  
 

  
  
サントリーウイスキー”余市”・・・日本の市価が1500円が€36=4800円はやり過ぎと思うけど、ショーケースに漢字ラベルのウイスキーや日本酒が並んでいることが彼らにとってはクールに見えるのかもしれない。 南部鉄器はなんと€590=80000 円  そもそも良い印象で迎えられていなければこのような法外とも思える値段付けは通用しまい。
 


   
 
飲食店の変化も驚いた。 20年前はもちろんど10年前においてもパリにはたくさんの中華料理店があった。 なのに今や中華料理店は探さないと出会わない。 日本料理店はどの通りでも見つけられる程に多い。 かなり怪しい日本料理店も多いから、日和見的な中国人が和食店に鞍替えしたしたものもかなり多いことは想像に難くないが。
  
 



そして驚いた料理。
説明には”ブイヨン、セモリナ粉、プラム、鴨の生ハム” とあった
食ってみたらこれはそのまんま ”梅の出汁茶漬け”。 ご飯の変わりがセモリナのクスクス、プラムと説明されたものはまさにシソ香る日本の梅干し。 和食だとお茶漬けは最後だけど、この地では温前菜として出てきた。 大御所アラン・デュカスが日本橋の八木長の鰹ダシを使うと聞いたけど、ちょっとした小径のビストロにも日本の風。  日本のエキスをかなり感じたパリ。
 
 
 
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