20150430

内 勝 ち

 

  



KUALIS に出てました。 ”内勝ち”
 
ストレートチェーンステーなら踵のクリアランスやチェーンサック回避を考えるとこうあるべきだと思うのだけど、何故”内勝ち” がデフォルトじゃないのか? もしかしてこうあるべきではない理由があるなら知りたい。 意匠的には耳付きタイプDOの様に一旦縁を切れないから丸棒の曲面からDOの平面に繋がる不連続面の微妙な段差の納め方が難しそうですが。 

  
 
一度大楽車してチタンのハンガー曲がったことがあってハンガー修正する時にはハラハラしたの思い出します。 何故かってチタンは鉄と違って脆性破壊(脆=モロっと割れます)するからあるべきところだけはこれくらい分厚く頑丈そうなのがいいです。
 
 
 
あっ、、、タイムリーにこれOMEGA La Tintane と同じ ”Titanium & Gold”   


 
Related to:
http://builderslife.blogspot.jp/2015/04/rbs-ti-road-ready-for-paint.html
http://feticizm.blogspot.jp/2013/03/detail-of-baum-cycles.html
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20150426

My first crush

 


La montre la plus insolite des années quatre-vingt

                        ・・・・・・・・・・      80年代でもっとも魅力的な時計。

 
 
このブロッシャーの言葉は伊達ではない。 1970年から始まった日本発のクオーツショックはスイスの伝統的時計産業を瀕死の重傷に陥れた。 そんなスイス時計産業にとって先が見えない1983年、最大手のOMEGAが巨匠 Gérald Genta にデザインを託しTITAN & GOLD というかつて無い異種素材で勝負に出た時計である。 日本では当時30万円以上と安くはなかったこの時計は世界的にもよく売れクオーツ時計では異例の15年近くに渡るロングセールスとなった。 この時計によって付加価値をつければ高額な時計でも売れることを証明してみせスイス時計復活の礎となったと言っていい時計である。  

 

70年代多くのスイスの時計メーカーが廃業し、世界トップクラスの時計メーカーとして知られるPatek, Vacheron, Audemars Piguet すらも開発費削減のためにムーブを共同開発しJaeger Lecoultre で委託生産したムーブを載せ、マニュファクチュールとして名を馳せたIWC ですら自社製機械の生産を止めてしまったような時代である。 いくら機械式ムーブメントに開発費を掛け、製造にお金をかけてもクオーツの精度には敵わず、先が見えない状況に追い込まれていたスイス時計が付加価値化に活路を見出し転換していったまさにその時代の主役の一つ。 

 
 


この時計は自分史的にも大きな影響を与えている。 
まだ子供だった当時、日本では”ラ・チタン” と呼ばれていたその時計を見たときの衝撃は忘れられない。 その頃チタンというと今のようにメガネやゴルフクラブに使われる汎用性のある素材ではなく宇宙船に使われるエキゾチックメタルという印象で、宇宙から降りてきたようなデザイン(当時はそう思った)、鈍く光るチタンに本来きらびやかさを演出する筈のゴールドを艶消し仕上げにする異端(金を艶消仕上げオンリーで使った元祖)の組み合わせにえも言われぬ興奮を覚え、チタンなる金属に強く興味と憧れを持ったほぼ最初だった。(今とは違い直ぐ目の前で見られるチタンは殆ど無かった) 

  
 
この時計はたくさん売れた上にヴィンテージにもなりきれない中途半端な位置づけなお陰で中古市場にも溢れている。 多くの派生モデルがあり、SS & GOLDTITAN & Paladium などもあるけれど、現在の中古価格は概ね安価な値段で、写真のような傷だらけのキチャナイ個体では2万円台で入手可能である。 

  



 
なんとなくですが、昔のあの感動を2万円台でお手元に・・・ というキャッチコピーが心のなかに流れたような気がしましたのは、普段のチタンフレーム磨きの経験をもってすればこの時計の仕上げなど容易いと思ったから。 


実際、エッジがない時計の仕上げというものは誤魔化しが効きミガキロンZで直ぐに変身。

 
 

 
加工性の悪いチタンに18KctGOLDを象嵌加工するという凝ったディテール。
最近のデカアツ傾向とは真反対の厚さ6mm 横幅33mmという小型。 チタンの軽さにサラっとした肌触りは嵌めてることすら忘れさせる一体感。 子供の頃のあこがれは今やクラシック。 金の面積多め、隠し難い昭和オッサン臭。 敢えて漂わせる臭気の深み。 ゴールドアドナイズドチタンフレームへの足がかり。 

 
 
腐ってもOMEGAの底力
TITAN または TITAN & GOLD といえば時計好きの方には90年台のPORSCHE DESIGN by IWC を連想する方が多いかと思いますが、この時計がなかったならきっと無かったろう。 



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20150422

桃 源 郷



今年の春は雨や風やで桜を楽しんだ期間がほんとに短かった。
過ぎた桜を追いかけるように東京を西方に向かった。 奥多摩から標高が上がるに従い、葉桜、散り始め、そして根本には花びらもない満開と季節を逆行する。 
  

  

  
  

   
  

 
ああ、まさにそこから下り。 それが峠。  
気づけば花魁淵をすっ飛ばす通ったことがないトンネルなど抜けた。
そのトンネルの竣工日は2008年とあった。 
この最後の登りも7年以上ぶりだったかと、遠い目になった。 
  
  
 

 
そして峠の広場は富士は見えるが華がない。
富士に向かって甲府に下り降りるワクワク感を演出するとか無いのか 
まあ、そこまでいかずともこの看板何とかならんのか・・・  7年前も思ったけど。 
 
   
  

  
 
  
 
 
         

柳沢峠から塩山に下り降りる途中、正面ズーッと向こうには南アルプス。
そして、中遠景から、近遠景、そしてすぐ側まで桃のピンク色
 
  
  
   
   
   
   

果物の中で一番好きなのはズバリ”桃” 
箱買して一夏で50個位は食べるんではなかろうか。 夏の桃を食べるとその上品な甘さに感動しケーキなど人工のお菓子など全く食べる気すらしない。 
 
 
桃源郷って言うのは字のごとく”桜”でも”梅”でもなくやっぱり ”桃” なんですよね
夏になると本当にもぎたて桃祭何ぞやっている。 でも、夏来たことは一度しか無い。 というのもここ甲府盆地は全国有数のホットスポットで真夏には40度近くなる。 その温度じゃ山を超えてまで来たくても簡単には来れない場所。
 
 
  
   
 
  
   
 
   

 
樹齢300年の見事な枝垂れ櫻は慈雲寺。 
そして、昼にはここ甲州の名物の一つ馬刺しをいただいた。
  
 
甲州名物といえば、B級グランプリで有名になった鳥モツもあるけどここは馬肉でなければならぬ。
それは馬肉のことを桜肉と呼ぶ理由にある。 切ったばかりの肉の色が桜色だからというもの、そして馬肉の旬の時期が冬の草や穀物を沢山食べたあとの桜の時期(=まさに今)というもの。 
いつも思うけど馬肉というのは本当に味がある。 
 
 

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20150418

基地の街


 
日本における米軍基地の75%が沖縄に存在する。 沖縄の面積の10%が米軍基地に供されている。 そして、この嘉手納基地は羽田空港の約2倍の広さで日本最大の空軍基地である。  

 
 
  
 
 


道の駅嘉手納からはすぐそこに滑走路を離着陸するF15戦闘機を見ることができる。 軍ヲタの方々などは無線機片手に「次は〇〇XX輸送機だ」などと話し合いながら長尺レンズを構えていた。などと言いながら、私も戦闘機が特に好きでもないのにこうして必至に流し撮りまでしてしまうツボ感がある場所、嘉手納。 
 
  

 
 
嘉手納より沖縄東海岸を北上した。 ここは終戦後よりアメリカ軍が基地を構えるキャンプ・シュワブ近くの辺野古。  今、普天間基地移設場所として脚光を浴びている場所である。 
 
 
このペンキ塗りの雨戸もそうだけど街全体になんとも言えない郷愁感が漂っていた。











このファサードまさにアメリカの栄華を連想させる60年代デザイン。
1961年型シボレーインパラのリアデザインもこんな感じになっている。  

 









 

 
ノスタルジックな感覚と更には廃墟感。 でも、人がいないわけではない。 開いた窓からはテレビの音が漏れ聞こえ人は住んでいる気配がする。 何を生業としているのか?まるで見えてこない。なんだか奇妙な感覚がする街。
 
 
 
戦後、特にベトナム戦争時の1960年代には米兵で大変な賑わいだった街。 ここで商売をしていた人の中には当時のサラリーマンの一月の給料を一日で稼ぐ人もいたのだそう。 特に基地近くの店ではキャッシャーにはその日のレートが示してあってここは40年前までアメリカがったことを意識せざるを得ない。 本州に居ると直接円安の恩恵など感じることはないけれど、ここでは最近の円安で多少街に出てきてくれるアメリカ兵も増えてきて生活に直結するほどの影響があるときいた。 一方、辺野古基地反対派は実は辺野古の住民などおらず何処かから集会で集まってくるのに地元にお金を落とさないのだとか。 もっとも、それに付随してくる報道陣はお金を落としてくれるそうだけど。 
  
   
戦闘機・ヘリコプターの墜落事故、米軍人による事件など、大きな不安を与える問題も多く発生しているけれど、その一方で基地内で働く日本人の給与、基地に住む軍人とその家族の消費などの基地からの収入は年間2000億円を超えている。 このように廃れ廃墟然とした街があったとしても、もはや基地なしではやっていけないのが沖縄の現状。
   
 
 
   
  
   
  
 

     
 

  
 
 
  
 
昼食はこれ。 
辺野古の少し南だけれど国道329号を走っていると車海老レストランの看板があったからだ。
そういえば沖縄県は日本有数の車海老養殖地だった。
踊り、天ぷら、焼き、フライ。 いったい何匹食べただろうか? エビ好きも思わず満足。 



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20150414

Paul Smith on vanhulsteijn


 
一品だけで大きくなる会社あります。 メジャーどころでは吉野家とか、私の中では大阪のインディアンカレーだったりしますが、カレーだけで芦屋に豪邸が建つ程大きなビジネスにする。 色んな物に手を広げず、無駄が出ず一番効率的なビジネス。 でも、それを成功させるにはその根本のネタが優れた代物でないと成り立たない。 


 
2011年オーダーした頃はディスカウントしますから買わねが?と弱気だったビジネスは、このフレームデザイン一本でポール・スミスがまたがる自転車にまでなっていた。 ご存知Paul Smith は若いころプロの自転車競技選手を目指していて、今では多くのメーカーともコラボしたりしてますが、本日から開かれる世界最大の見本市Milan Salone del Mobile 期間中Paul Smith Milano では vanhulsteijn が展示されるそうです。  スピード出世。

  

Related to:
http://www.paulsmith.co.uk/uk-en/paul-smith-world/blog/vanhulsteijn-bikes-visit-my-milan-shop-during-salone-del-mobile 
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20150407

対 立



日本の劣勢が明らかになる太平洋戦争末期、日本軍史上初めて14ー17歳の徴兵年齢に達していない少年を動員した。 その鉄血勤皇隊に参加された方ですら84歳以上。 戦後70年、日本唯一の地上戦の地、沖縄に生きた方々が80代、90代と高齢になり、生の声を聞ける時間はどんどん少なくなっている。 事実、ひめゆり平和祈念資料館では1989年の開館以来ひめゆり学徒隊の生存者が団体の来館者に講話を続けてきたが、証言員の減少や高齢化から3月いっぱいでの終了となった。 沖縄行きにはおっじい、おっばぁをつかまえては戦争の話を聞いてみたいという気持ちがあった。
 
   
 

 
 

 
 
 

そこで感じることは従軍した男と民間人として戦火に晒された女、子供の本土に対する感覚にはかなり違いがあること。  印象的だったのは今はおっばぁになった女性達の声。 異口同音に語られる内容は、沖縄戦での日本軍の沖縄の人たちに対するにはひどい仕打であった。 当時琉球は劣等に見られていたこともあり、日本兵が隠れるために女、子供を銃弾飛び交う壕の外に追い出す、アメリカ軍に気付かれるという理由で泣く子供を銃剣で殺害する、逃げてきた日本兵による食料の略奪・・・  アメリカに対してではなく日本軍に対する憎しみの大きさに驚かざるをえなかった。 
 
 

  
 
 
   
 
米軍普天間基地の辺野古移設をめぐる沖縄県と安倍政権のバトルが激しくなっている。  
キャンプ・シュワブ沖、辺野古移設反対の民意を受けて当選した翁長雄志知事は、沖縄防衛局が辺野古沿岸部で進めるボーリング調査の停止を沖縄防衛局に指示、それに対し農水省は知事の指示の効力を一時的に停止することを決定 ・・・   



本州にいると何故ここまで拗れるのか?違和感さえ感じていた。 でも、それには70年前捨て石にされた頃から続く本土に対する沖縄県民の感情があることをはじめて知った。 以前から翁長沖縄県知事に対しては翁長氏らが上京しても会わないという幼稚レベルの嫌がらせをしてきた安倍政権。 官房長官の『粛々と進めていく』という木で鼻を括った様な態度 (この表現は今後使わないことにするらしいが・・・) を見るにつけ、謙虚さの欠片も感じられないその態度に沖縄県民が態度を硬化させるのも理解できる。 普天間が危険であることくらいは沖縄県民が誰よりも理解しているのだろうけど長きに渡り金目のものを撒いて黙らせてきた傲慢なやり方だけでは信用までは築けてはいない。 本州では殆ど見ないようなポスターが貼ってあったり、かなり左よりの人達に漬け込まれる素地も政府が作ってきたものなのだろう。 
  


沖縄地上戦で日本海軍沖縄根拠地隊司令官、大田実少将が自決7日前に海軍省に打った電文の最後の言葉が印象的である。


”沖縄県民かく戦えリ”
”沖縄県民に対し 後世特別のご高配を賜らんことを ”



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20150403

久 高 島



東京からだと3 時間近く、やはり珊瑚由来の白い海底の海は色が違う。

  
沖縄についたら早速南城市の安座真港から船で約15分の久高島に向かった。 久高島は琉球の創世神アマミキヨが天から降りてきて国づくりを始めたという、琉球神話の聖地である。
  
 
 

 
 

 
 





沖縄に来てさっそくの飯はやはりソーキそば。 
ソーキそばを食べて美味しいと思ったことはない。 不味いとも思わないけどこれを食わないと沖縄に来た気がしないから食べる。  沖縄はやっぱりこういう店がいい。 何がいいって空気の流れ方。 時間の流れ方。 外壁にマジックでメニュー書くとかおおらかさが溢れ出てる。 


店を出るときオッバァが声をかけてくれた。 「この先は飲み物も自動販売機もなーんもないさー」
それほど暑くもないから、持ってきたペットボトルの半分でたりるだろう。
 


 
島は細長くって、ビャーっとこんな道が通っていて、自転車で一周30分ほどで回れる大きさ。 船を降りた観光客はレンタサイクル屋に向かう人が多い。 
  

確かにここはロードよりママチャリの方がいい。 道的にも、そしてのんびりした空気的にも  
 





 
琉球国王も祭事に訪れていたというイシキ浜。 はるか彼方にある異界「ニライカナイ」からくる神様が船を停泊させる場所。 さっきおっばぁが言うてた浜。  遊泳も禁止。石ひとつ持って帰ってはいけない神聖な浜。 
 
 







  
フボー御嶽(ミタキ)は琉球創世の島の中にあって最も神聖な場所。 
 
 
奥には何があるのかと思うのだけど、神が祀られる神殿があるわけでもない、かと言って日本最古の神社=大神神社のように木や山が御神体ということでもないのだとか。 奥には円形広場があり神聖行事などの祭祀を行う場所だという。 日本古来の神道でもない、その後入って来た仏教でもない独特の文化圏なんだなぁ。 
 
 
 




  
 

 
歩くのと変わらないスピードで自転車を漕いだ。 
島のどこにいても波の音、耳が風を切る音、風に葉が擦れる音。 とても音を意識させられたけど、コントラストと彩度が一気に上がる晴れの日には音より視界に入る南国色が優勢になるのだろう。 
 
 
 

 
 


沖縄出身の名前に伊良部という人がいるし、伊良部島という島もある。 このイラブーと言うのは海ヘビのことである。 イラブーは神の使いなのに、海でとっ捕まえられては燻して食品に加工などされている(イラブーを捕まえることが出来る人は代々決まっているそう)。 かつては高級な宮廷料理に使われたそうだけど、ここ久高でも伊良部料理を出す店がある。 

 
そのイラブ―を燻して作った真っ黒イラブーを戻して作るイラブー汁をいただいた。  同じく温燻で仕上げられるからかカツオのようなでもやっぱり違う。 違和感はあるけど飲み慣れれば普通に飲める風味。 イラブーは海から陸に上げても1年はエサを食べなくても平気だそうで、これを飲むと半年分の元気がもらえると言われてる。  


 
この島自体がパワースポットだそうだけど、島のいたるところに霊験あらたかなストーリーが有り、伝統の食材にもいちいちストーリーがある。  そのいちいちを聞き、知ればなんとなく清々しい気持ちになる気がした。
 
 
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