20121230

年越しフォ-っ



コク、キレ、上品
 
澄み切った黄金色の憎いやつ。
 
 


 
蒸し鶏が好きでたまに作っていたんですが、いつも捨てていたその茹汁。
試しに飲んでみたら、これが旨かった。
骨もついてないし、これっぽっちのものがスープとして成り立つという発想が無かったけど、まるで不覚で迂闊でした。




 
スープの味付けは岩塩とナンプラーのみ、鳥と魚のダブルスープ的な。
茹でた鳥は具にして、あればパクチー、なければ三つ葉なんぞ。 最期にすだちを絞れば香りとかすかな酸味で引き締まる。  
 
 
 
一日早い”年越そば” ならぬ”年越フォー” は太く長くと太米麺で。

  

何よりイイのは、鳥と麺を茹でるだけで出来上がること。(鳥はしょうがとネギとコトコト15分位)
ジロー系が嫌いな方、化調味にうんざりな方はきっと好きだと思いますよ。

  
 
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20121221

出張遊戯


 
羽田から北陸に飛ぶ飛行機は秩父あたりから北西へちょうど浅間山のすぐ上を飛びます。
彼の地はもう銀世界。
上空7500mから見ると冬特有の太平洋側の晴れ区域はちょうどこの先あたりまでで、これ以上北西には雲が行く先の視界を閉ざしていました。
 
  
 


そしてやはりといいますか雨だか雪まで降っていて空港を出たら一面銀世界。

 
いい歳になりますと上司に怒られることもめっきりなくなります。 
でもそれと反比例するように、部下に見られないようにコソコソする機会が激増しているように思います。 まあ、世間様を見ても元原子力安全保安院のカツラー審議官が愛人を囲っていたとか暴露されたりしてますから、皆多かれ少なかれ見られちゃマズイような事をしているのでしょう。
私の場合、出張でスーツに輪行袋を持つ姿程度ですから可愛いもんです。

 
この時まだ朝の時台だったんで、打ち合わせの前にまずはホテルに輪行セットを預けるところから事を始めました。
 
 
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20121218

鰻とダイヤモンド

   

大宮台地から湧きだした水が流れ出し、低地に水が溜まり沼になった。
路肩もなく交通量も多い幹線沿いにあって、春から夏はその緑に、冬はメタセコイアの紅葉にこの別所公園あたりの独特な雰囲気にハッとさせられる。    
  
  
   
  

江戸時代にはこのあたりにも生息していた鰻が浦和の名物にもなっていて、今も浦和は鰻の消費量日本一である。  
  
   
  

 
と、ここで何故かカツ丼を選択するような男になりたいが、話の流れ通り鰻を食らう程度の男である。
スマホなる文明の利器でその場で検索し一番評価が高いと書いてある店に向かう。

 
 
開店早々に入ったがもう既に半分以上の席が埋まっていた。  肝焼きなんぞ摘みながら待つこと2~30分待。 かなり嵩のあるお重がどんと目の前に置かれ、蓋を開けばタレの香りとともに現れた姿に「おっ、ご飯見えてない」っと。  塩気にちょっとトゲがあるタレは好みとは違うけど鰻は厚く柔らか、程よい脂の甘味が口に広がってタレの塩気もバランスに感じてくる。 
それにしても、冬になってちょっとは鰻の値段の高騰が落ち着いたかと思ったけれど、4k 以上という値段は少なくとも早くて安い丼のイメージとはえらくかけ離れていてそう度々食べられるもんじゃない。 ・・・ お重ですけど。
 
 
 

 
荒川からまた延々と多摩川まで回ってきて立川辺り。
長尺をつけたカメラマンの人だかりができている。 そういえば冬のこのあたりはダイヤモンド富士が見られる場所だった。 
 
 
以前はダイヤモンド富士が見られると踏んでカメラマンが構える場所は100m位の範囲に散らばっていた。 更にいざ太陽が沈むという時頂上の中心からずれていれば、どちらに走れば山頂の中心に近づくのか? 人によって逆に走りだす人がいたりして面白かった。
なのに去年と比べてもネットによる情報の共有化がどんどん進んでいるのか? ほんとにピンポイント10m位の範囲に人がかたまっている。  


食べログで評価が高い店に行くのもそうだけど、成功と思われるところにだけ人が集中する様を見れば、便利な様で情報だけをもって成功を求め他を試すことすらしないなんて人生の機微すらなくなってしまう気がします。  そして駅前でやたらと政治家さんたちの口から出てきた 「失敗を恐れない社会を・・・」 ってのもますますその逆方向に加速しているように思えてきます。 

  
 
もっとも、幾ら成功に近い場所に陣取っても雲が掛かればダイヤモンド富士の姿を見るという目的の叶わないルーザー共に成り下がるわけで、これが現実なのでした。 


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20121215

癩 院 記 録




地下鉄内の車内広告に目が止まった。
”癩院記録” とあって、写真には全身を包帯で巻かれた患者がベッドに座る病室の古い写真。
鼻や耳が溶ける不治の病として虐げられ、差別され、松本清張の” 砂の器 ” の題材になった癩病の療養所の写真だった。
場所を見ると、武蔵村山の久米川と清瀬の間あたり国立ハンセン病資料館とある。
 
 


  
 

 
 







 



1996年らい予防法廃止、そして2001年小泉政権下の国の隔離政策を放置してきた責任に対する判決への控訴断念でハンセン病患者の差別の歴史はピリオドが打たれた。
 
 
 
不治の病といわれ、宗教的にも天刑病などと称されて世人に嫌悪され虐げられ、物理的にも療養所に隔離され子供をもうけることはおろか、断種手術が当たり前のように行われていた。
周りを堀によって取り囲まれた広大な療養所敷地内には、農地から養豚場、売店、娯楽施設、教会、火葬場、墓地まで揃っていて、かつてはここに一度隔離されればここで一生を終え患者を根絶やしにすることが求められていたのだ。  
子供の頃から療養所に送られ、家族との断絶を余儀なくされほぼ一生を療養所内で暮らし、老齢になって差別にピリオドと言われても居る場所はこの療養所にしかない。
 
 
 
2001年の国の控訴断念で、癩病は既に過去のもの、既にないものだと思っていた。
しかし、そこには時が止まったように厳然として療養所があって、今も患者の方々の生活があることが驚きだった。 



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20121212

関サバの熟成



こんなに袋が大きいのは想定外だった。 走ると風圧でバタバタしまくる。
袋のご機嫌が悪いと袋の角がスポークに当たりババババッ・・・と車輪に食い込みやがる。



関アジ、関サバの本場、大分県の佐賀関の漁協で関サバ、関アジを買った。
この関ブランドは、一本釣りし生簀で泳がせストレスを取り除いてから出荷するという手間を掛けてブランドを守っている。  注文すると生簀から上げたばかりのものを活け締めし、捌きたてを渡してくれた。
その辺の真サバとは違い、なんと関サバは酢〆などせずとも3日は生で食べられるという。





前々々回エントリーで佐賀関で食べたという関サバは、生け締め直後のとても新鮮なもの。
でも実を言うと、新鮮な身はビンビンに硬くて噛み切れないほどの弾力があったけれど、味は殆どなく美味しいといえるシロモノではなかった。



しかしである。
東京まで持ってきた関サバを、一日後、そして二日後と2回に分けて食するとその変化に驚いた。
その味はどんどん深くなり締めて二日後の生食リミットの身のなんと美味かったことか。 
タンパク質分解過程で身は時間とともに柔らかくなりイノシン酸に変わる ・・・・ 情報としては知っていても日毎に進む熟成過程を実際に舌で確かめる機会などそうあるもんじゃない。
熟成がここまで重要なものだったかと眼から鱗であった。

 
 
この事実を鑑みれば、本場まで行って捌きたての関アジ、関サバを食べた人の評価が往々にして低くなる可能性が否めない。 地元も 「捕れたてピチピチ=旨い」 と盲信されがちな不実を啓蒙していく事も必要じゃないかなあ。


 
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20121204

Lotto Adecco Litespeed Vortex

Lotto Adecco  McEwen's Litespeed Vortex


1994年ゲビス・バラン チーム(Gewiss-Ballan team)でデローザ・チタニオ(De Rosa Titanio)がメインバイクとして使われてから8年後の2002年。  グランツールにおいておそらく初のチタンフレームの完全フル参戦がロット・アデッコ チーム(Lotto Adecco)の Litespeed であった。  
 
 

2002年頃はまだフルカーボンではColnago C40、 De Rosa KING、 Giant TCR、 Look、 Trek 位。  Pinarello Princeの評価が高く、アルミフレームにカーボンバックのスタイルが多くを占めていた時代である。 クロモリはすっかり駆逐されフレーム素材はアルミ、カーボン、チタン、マグネシウム。   ヘッドのオーバーサイズ化が終わって、ヘッドセットはインテグラルに変わりつつあった頃。 技術革新でバイクが様変わりする課程で百花繚乱という状態だった。   



この年Lotto Adeccoチームからは、スプリンターであるロビー・マキュワン(Robbie McEwen)が第3ステージ、及び最終20ステージのパリのゴールで優勝、そしてポイント賞(マイヨヴェ-ル)獲得。 マリオ・アールツ(Mario Aerts)は山岳賞2位、クリストフ・ブラント(Christophe Brandt)が新人賞3位を獲得した。  この活躍によって、Lottoチーム翌年のチタンバイク継続使用を期待させたが、2003年はEddy Merckx のスカンジウム機材での参戦となり、チタンフレームのツール・フル参戦は2002年が最初で最後の年となった。


 
シャンゼリゼの優勝ゴールを飾ったマキュワンのバイクがフル6/4Ti Vortex  
Lotto Adeccoチームの26人中カスタムジオメトリーは僅か9台。 多くの選手が所謂吊しのフレームで戦った。 (Litespeedの技術者もこの事実にジオメトリーについて自信を深め、様々なヨーロッパメーカーへのOEM協力等で得た物が大きかったと語っている) そのマキュワンが乗ったタイプは市販と全く同じストックサイズ53cmで2002年型。 これは偶然にも私のサイズだったりしてムムムッと食指が伸び、おまけにボトルケージも当然Tacxでしょと影響を受けてしまうのですが、特段マキュワンが好きなわけでも無く取っ掛かりにしてしまうのは完全にアホウに違いありません・・・



          http://feticizm.blogspot.jp/2012/04/speedwell-titalite.html
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