20121230

年越しフォ-っ



コク、キレ、上品
 
澄み切った黄金色の憎いやつ。
 
 


 
蒸し鶏が好きでたまに作っていたんですが、いつも捨てていたその茹汁。
試しに飲んでみたら、これが旨かった。
骨もついてないし、これっぽっちのものがスープとして成り立つという発想が無かったけど、まるで不覚で迂闊でした。




 
スープの味付けは岩塩とナンプラーのみ、鳥と魚のダブルスープ的な。
茹でた鳥は具にして、あればパクチー、なければ三つ葉なんぞ。 最期にすだちを絞れば香りとかすかな酸味で引き締まる。  
 
 
 
一日早い”年越そば” ならぬ”年越フォー” は太く長くと太米麺で。

  

何よりイイのは、鳥と麺を茹でるだけで出来上がること。(鳥はしょうがとネギとコトコト15分位)
ジロー系が嫌いな方、化調味にうんざりな方はきっと好きだと思いますよ。

  
 
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20121227

千里浜ドライブウェイ



これでも上りは意外といけます。 しかし、下りはあきません。
 
 
舗装路は余裕と思い込み地図上ちょっと薄めの線で表記された道を行ってみたらこれです。
能登半島を東岸から西岸方面に横断しましたら、内陸部の山は標高は低めでも海沿いとは5度くらい気温が違うしいきなり雪が多い。
 

  
 
  
 
そして能登半島の西海岸にたどり着けば、東海岸より更に暖かくて気候がまるで違う。 
日本海の湿った空気が能登の山にぶつかって西海岸に雪を降らせると思いそうだけれど、西海岸沿いは私が知るかぎり雪が少ない。 
 
 

その代わりといっちゃなんだけど、海岸はゴミだらけ。
よく見るとハングル文字が見える。  そういえば、白骨化した遺体が乗った北朝鮮からと思われる木造船が能登に流れ着いたニュースが有りました。 対馬海流に流されいろんな物がここに流れ着く。
  
 
  
  
  
  
  
 

 
能登のこの道もまた素敵な道。
日本で唯一公式に車で走れる砂浜 = 千里浜ドライブウェイ
羽咋市のホームページ(http://www.city.hakui.lg.jp/sypher/www/section/detail.jsp?id=595)を見るとロードバイクでも大丈夫とあるが、これはかなり難しい。 土が湿りすぎていてタイヤが取られるし、とてつもなく漕ぎが重くって塩を含んだ砂だらけになって ・・・  じつに一度でいい
  
  
 

 
もちろん、自転車のあとは冬の北陸の味覚。
タグ付き本ズワイ蟹といっても”越前蟹”ではなく金沢などで上がる”加能蟹”は捕れるところはほとんど同じでも水揚げの場所が違うだけで随分お安く頂くことができます。
 
 
 
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20121224

立山連邦を望む




我が晴れ男振りには驚くほどで、天気予報に反して午前中には会議室の窓から日が差し始める。
自転車は諦めていたけれどこうなるとソワソワしだし、やたらといろんな決定がスピード化した。
そして2時には打ち合わせを切り上げることができたのだから、俺もやったらできる

 

晴れただけじゃない。
冬にこれだけ綺麗に見えることはまず無いという見事な立山連峰の姿にも興奮します。
 
  
  

 
車道はほぼドライでロードでも問題ない事を確認すると、意識はここから25kmほどの場所にある念願の絶景地、雨晴海岸に飛んでいった。  
この条件を逃すと一生見られないかもしれない。 信号などを考えると1時間強、4時前到着ならまだ日没に間に合うと走りだした。




 
 

 
海越しに隆々とした雪山を見られる場所はそうはありません。
しかも、ほとんどの日が曇りや雪の冬の日本海側。 4度目にしてやっと見られました。
日没までは1 時間近くあったけれど山肌が陽光に照らされている時間は15分もなかった。
風なく海は凪。 とても静かな中一度だけ横を走ってきたローカルの氷見線の風情も良い。 
 
 

この日の夜には立山連峰が綺麗に見えたとローカルニュースで放送されるほどレアな日だったようです。
 
 
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20121221

出張遊戯


 
羽田から北陸に飛ぶ飛行機は秩父あたりから北西へちょうど浅間山のすぐ上を飛びます。
彼の地はもう銀世界。
上空7500mから見ると冬特有の太平洋側の晴れ区域はちょうどこの先あたりまでで、これ以上北西には雲が行く先の視界を閉ざしていました。
 
  
 


そしてやはりといいますか雨だか雪まで降っていて空港を出たら一面銀世界。

 
いい歳になりますと上司に怒られることもめっきりなくなります。 
でもそれと反比例するように、部下に見られないようにコソコソする機会が激増しているように思います。 まあ、世間様を見ても元原子力安全保安院のカツラー審議官が愛人を囲っていたとか暴露されたりしてますから、皆多かれ少なかれ見られちゃマズイような事をしているのでしょう。
私の場合、出張でスーツに輪行袋を持つ姿程度ですから可愛いもんです。

 
この時まだ朝の時台だったんで、打ち合わせの前にまずはホテルに輪行セットを預けるところから事を始めました。
 
 
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20121218

鰻とダイヤモンド

   

大宮台地から湧きだした水が流れ出し、低地に水が溜まり沼になった。
路肩もなく交通量も多い幹線沿いにあって、春から夏はその緑に、冬はメタセコイアの紅葉にこの別所公園あたりの独特な雰囲気にハッとさせられる。    
  
  
   
  

江戸時代にはこのあたりにも生息していた鰻が浦和の名物にもなっていて、今も浦和は鰻の消費量日本一である。  
  
   
  

 
と、ここで何故かカツ丼を選択するような男になりたいが、話の流れ通り鰻を食らう程度の男である。
スマホなる文明の利器でその場で検索し一番評価が高いと書いてある店に向かう。

 
 
開店早々に入ったがもう既に半分以上の席が埋まっていた。  肝焼きなんぞ摘みながら待つこと2~30分待。 かなり嵩のあるお重がどんと目の前に置かれ、蓋を開けばタレの香りとともに現れた姿に「おっ、ご飯見えてない」っと。  塩気にちょっとトゲがあるタレは好みとは違うけど鰻は厚く柔らか、程よい脂の甘味が口に広がってタレの塩気もバランスに感じてくる。 
それにしても、冬になってちょっとは鰻の値段の高騰が落ち着いたかと思ったけれど、4k 以上という値段は少なくとも早くて安い丼のイメージとはえらくかけ離れていてそう度々食べられるもんじゃない。 ・・・ お重ですけど。
 
 
 

 
荒川からまた延々と多摩川まで回ってきて立川辺り。
長尺をつけたカメラマンの人だかりができている。 そういえば冬のこのあたりはダイヤモンド富士が見られる場所だった。 
 
 
以前はダイヤモンド富士が見られると踏んでカメラマンが構える場所は100m位の範囲に散らばっていた。 更にいざ太陽が沈むという時頂上の中心からずれていれば、どちらに走れば山頂の中心に近づくのか? 人によって逆に走りだす人がいたりして面白かった。
なのに去年と比べてもネットによる情報の共有化がどんどん進んでいるのか? ほんとにピンポイント10m位の範囲に人がかたまっている。  


食べログで評価が高い店に行くのもそうだけど、成功と思われるところにだけ人が集中する様を見れば、便利な様で情報だけをもって成功を求め他を試すことすらしないなんて人生の機微すらなくなってしまう気がします。  そして駅前でやたらと政治家さんたちの口から出てきた 「失敗を恐れない社会を・・・」 ってのもますますその逆方向に加速しているように思えてきます。 

  
 
もっとも、幾ら成功に近い場所に陣取っても雲が掛かればダイヤモンド富士の姿を見るという目的の叶わないルーザー共に成り下がるわけで、これが現実なのでした。 


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20121215

癩 院 記 録




地下鉄内の車内広告に目が止まった。
”癩院記録” とあって、写真には全身を包帯で巻かれた患者がベッドに座る病室の古い写真。
鼻や耳が溶ける不治の病として虐げられ、差別され、松本清張の” 砂の器 ” の題材になった癩病の療養所の写真だった。
場所を見ると、武蔵村山の久米川と清瀬の間あたり国立ハンセン病資料館とある。
 
 


  
 

 
 







 



1996年らい予防法廃止、そして2001年小泉政権下の国の隔離政策を放置してきた責任に対する判決への控訴断念でハンセン病患者の差別の歴史はピリオドが打たれた。
 
 
 
不治の病といわれ、宗教的にも天刑病などと称されて世人に嫌悪され虐げられ、物理的にも療養所に隔離され子供をもうけることはおろか、断種手術が当たり前のように行われていた。
周りを堀によって取り囲まれた広大な療養所敷地内には、農地から養豚場、売店、娯楽施設、教会、火葬場、墓地まで揃っていて、かつてはここに一度隔離されればここで一生を終え患者を根絶やしにすることが求められていたのだ。  
子供の頃から療養所に送られ、家族との断絶を余儀なくされほぼ一生を療養所内で暮らし、老齢になって差別にピリオドと言われても居る場所はこの療養所にしかない。
 
 
 
2001年の国の控訴断念で、癩病は既に過去のもの、既にないものだと思っていた。
しかし、そこには時が止まったように厳然として療養所があって、今も患者の方々の生活があることが驚きだった。 



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20121212

関サバの熟成



こんなに袋が大きいのは想定外だった。 走ると風圧でバタバタしまくる。
袋のご機嫌が悪いと袋の角がスポークに当たりババババッ・・・と車輪に食い込みやがる。



関アジ、関サバの本場、大分県の佐賀関の漁協で関サバ、関アジを買った。
この関ブランドは、一本釣りし生簀で泳がせストレスを取り除いてから出荷するという手間を掛けてブランドを守っている。  注文すると生簀から上げたばかりのものを活け締めし、捌きたてを渡してくれた。
その辺の真サバとは違い、なんと関サバは酢〆などせずとも3日は生で食べられるという。





前々々回エントリーで佐賀関で食べたという関サバは、生け締め直後のとても新鮮なもの。
でも実を言うと、新鮮な身はビンビンに硬くて噛み切れないほどの弾力があったけれど、味は殆どなく美味しいといえるシロモノではなかった。



しかしである。
東京まで持ってきた関サバを、一日後、そして二日後と2回に分けて食するとその変化に驚いた。
その味はどんどん深くなり締めて二日後の生食リミットの身のなんと美味かったことか。 
タンパク質分解過程で身は時間とともに柔らかくなりイノシン酸に変わる ・・・・ 情報としては知っていても日毎に進む熟成過程を実際に舌で確かめる機会などそうあるもんじゃない。
熟成がここまで重要なものだったかと眼から鱗であった。

 
 
この事実を鑑みれば、本場まで行って捌きたての関アジ、関サバを食べた人の評価が往々にして低くなる可能性が否めない。 地元も 「捕れたてピチピチ=旨い」 と盲信されがちな不実を啓蒙していく事も必要じゃないかなあ。


 
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20121208

この富士



丹沢あたりを走っていると結構こういうシーンに出会う。
見える大きさはどんなに小さくてもその存在感は普通じゃない。
走っていても思わず立ち止まる。
  
  
  
  
  
 

  
  

 
 


紅葉の道、山並みの中いきなり真横に現れて。
その先、正面にこのバランス。
ここからの富士はすわりがいい。   
 
 
 

  
   

  
  

   
    


山の後はすっかり落ち着いた海の側を走って、大磯。
良い感じの日本家屋の調理場では店主は包丁を研ぎながら寡黙に鳥をさばき続けていて、そのイメージのまんま料理は真っ当。  鳥わさ、焼き物、揚げ物、とにかくジューシーで旨かったなあ。
 
 
 
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20121204

Lotto Adecco Litespeed Vortex

Lotto Adecco  McEwen's Litespeed Vortex


1994年ゲビス・バラン チーム(Gewiss-Ballan team)でデローザ・チタニオ(De Rosa Titanio)がメインバイクとして使われてから8年後の2002年。  グランツールにおいておそらく初のチタンフレームの完全フル参戦がロット・アデッコ チーム(Lotto Adecco)の Litespeed であった。  
 
 

2002年頃はまだフルカーボンではColnago C40、 De Rosa KING、 Giant TCR、 Look、 Trek 位。  Pinarello Princeの評価が高く、アルミフレームにカーボンバックのスタイルが多くを占めていた時代である。 クロモリはすっかり駆逐されフレーム素材はアルミ、カーボン、チタン、マグネシウム。   ヘッドのオーバーサイズ化が終わって、ヘッドセットはインテグラルに変わりつつあった頃。 技術革新でバイクが様変わりする課程で百花繚乱という状態だった。   



この年Lotto Adeccoチームからは、スプリンターであるロビー・マキュワン(Robbie McEwen)が第3ステージ、及び最終20ステージのパリのゴールで優勝、そしてポイント賞(マイヨヴェ-ル)獲得。 マリオ・アールツ(Mario Aerts)は山岳賞2位、クリストフ・ブラント(Christophe Brandt)が新人賞3位を獲得した。  この活躍によって、Lottoチーム翌年のチタンバイク継続使用を期待させたが、2003年はEddy Merckx のスカンジウム機材での参戦となり、チタンフレームのツール・フル参戦は2002年が最初で最後の年となった。


 
シャンゼリゼの優勝ゴールを飾ったマキュワンのバイクがフル6/4Ti Vortex  
Lotto Adeccoチームの26人中カスタムジオメトリーは僅か9台。 多くの選手が所謂吊しのフレームで戦った。 (Litespeedの技術者もこの事実にジオメトリーについて自信を深め、様々なヨーロッパメーカーへのOEM協力等で得た物が大きかったと語っている) そのマキュワンが乗ったタイプは市販と全く同じストックサイズ53cmで2002年型。 これは偶然にも私のサイズだったりしてムムムッと食指が伸び、おまけにボトルケージも当然Tacxでしょと影響を受けてしまうのですが、特段マキュワンが好きなわけでも無く取っ掛かりにしてしまうのは完全にアホウに違いありません・・・



          http://feticizm.blogspot.jp/2012/04/speedwell-titalite.html
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20121127

雲海 由布院

  
 
由布院の雲海。
この日は晴れ、朝の気温は4℃ の予報だった。 中居さんの「こういう日は雲海が見られる」 との言葉に、朝も暗いうちから由布岳の方に登ってきました。  
 
 
 
気温は低くて息が白いのは当然のこと、すっかりアップした体からは機関車のようにモウモウと湯気が上がっています。
  
  
  
  
 
 
    
 
 

   
あっという間に太陽の高度が上がっていった。  
雲海には朝日が差し始め、山肌に色づく紅葉は見事に彩度を上げる。 そして笠雲に化粧された由布岳はその地形のアンデュレーションを刻々と変化する光と影であらわしていました。  
 
 
  
  
 
一時間位見ていたかなあ。 
寒さに手を擦り、白い息を吐きながら自転車に戻ってくると薄っすらとついた霜が溶け始めていた。
 
   
 
  
 
 


由布院から峠を超え別府温泉に降りてきたそこ。
明礬温泉というところに地獄蒸しプリンというのがある。
柔らか過ぎず、硬すぎず、甘すぎず、程よい卵の濃厚感があってまろやか。
観光地のデザートらしからず旨し。
 
 

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20121124

耶馬溪サイクルロード


 


 
大分県に耶馬溪(ヤバケイ)という場所がある。
ご覧のように奇岩が聳え立つ新日本三景の一つ。 渓というからには水が流れる谷筋でその下流の川沿いにあるメイプル耶馬サイクルラインは日経新聞オススメサイクリングロード日本一になったこともあるそう。  

 
 

   
    

 
 


サイクリングロードの中盤付近にJCAがやっている耶馬溪サイクリングターミナルなる施設があるんだけれど、「サイクリングロードが復旧するまで暫くの間休業いたします。」 との張り紙があった。  とは言っても大したこともないだろうと、橋の入口で通せんぼをするようにあるビニールの停止線など無視して入ろうとも思ったけれど、そのまま進んでいたらエライことになっていた。 



このサイクリングロードは耶馬線という線路跡を整備したものなのだけれど、増水でガーター橋が流されるほど凄まじいものだったようで7月の大雨の傷跡というのは想像を遥かに上回るものだった。
 
 
  

 
 

 
 

 
 

 
下流域に行くほどその被害は激しかった。
災害から5ヶ月も経ったというのに復旧作業さえ行われていないどころか、なんの注意喚起すらされていないところもあって危険極まりない。
そして日本一長い八連の石橋、オランダ橋は手すりが流れ通れなくなっていた。 
 
 
 

 
「人4文、牛馬8文」 通行料を徴収して工事の費用に充てた日本初の有料道路と言われている。
  
 
 
耶馬渓を代表する名勝である競秀峰、その昔ここは断崖絶壁に鎖のみで結ばれた難所だったそう。
諸国巡礼の旅の途中に禅海和尚がそこで人馬が命を落とすのを見て、石工たちを雇いノミと槌だけで30年かけて掘り抜いたといわれる青の洞門。
この場所も、先の豪雨による増水で天井まですっかり水につかったそうだ。



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