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20190129

Twinkle Twinkle Little Stars

  

西表島はとにかく街灯がない。 足元すら見えないほど真っ暗な中空を見上げればこれ。
八重山諸島は日本で一番たくさんの一等星が見られる場所だそうだけど、一等星の数が ・・・ とかどうでも良くなるほどの星。


 
砂浜にカメラをゴロンと寝かせて、砂で枕を作って角度を調整して撮った。 
オリオン座位(真中やや左下)しかわからないけど、牡牛座、双子座、そしてカペラやスバルもこの辺のどこかにあるはず。

 
 


右下の樹形からニョキッと北斗七星の柄杓の部分が飛び出して、その先には北極星。
感度上げたからちょいと荒いけど、こんな星空を18000円のコンデジで撮れるのだからすごい時代です。



西表島はガスを排出する施設や車の絶対数が極端に少ない、邪魔になる人工光が少ないなど好条件が揃っているからでしょう。 むしろ中国からのPM2.5の方が心配にある。 



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20160805

1945年8月5日

  
 

  
 
 


終戦の10日前の194585日高尾駅の先、湯の花トンネルでアメリカ軍のP-51戦闘機複数機が満員状態の列車に対して執拗な機銃掃射を加え、50名以上の死者が発生した事件があった。


知る人も少ないだろうけれど同日、高尾駅にも機銃掃射が加えられた。
その機銃掃射痕が今も残っている事は前々から知っていたが、乗り換え時間があったものだから駅員さんにその場所を尋ねた。



今まで何度かその下を通ったことがある場所だった。
 1、2番線ホームの31、33柱(他ホームからの移動階段を降りてすぐ正面) 該当柱はその跡が残る部分のみ塗装がされておらず今も当時のままひっそりと行き交う人々を見続けていた。 

1945年8月5日・・・ 71年前の今日である。


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20160622

温泉津温泉

  

出雲から西に移動した。 去年すっかり気に入った温泉地に行くため。 
その温泉地の名は”温泉津”・・・ ”ユノツ” と読む


国道はつまらないから、海に近い細道が山陰本線と絡みながら通っている適当なところまで列車に乗った。

 

  


   
  
  
    
 

    
 
 
   
 
日差しは夏と変わらないけど気温は23度ほど。 空気は乾燥していて冷たくて気持ちいい
田舎道に入れば春の様に嬉しそうな鳥の声に、あとは葉が擦れる音くらい
なんだかうっとりした


 
  


  

砂浜には”鳴き砂の砂浜” とあった
誰もいない砂浜。 靴を脱いで裸足になって水辺まで
でも、”鳴き砂”の音はしない。 水辺の乾いたところと書いてあったけど湿ってたからかな
 
 
  
   
 
 

   

ダブルの鳥居の向こうにキラキラ見える海にハッとした。
集落、線路、海、山の中、そしてまた集落 ・・・ そんな感じの順番で車もない道を走った

 
  
   
 
 
    



  
 
  


   

この温泉津温泉はすっかり気に入った。 その佇まいが良い
宿を取ろうとすれば意外と満室で取れなかったりするのだけど、観光地然とはしていない。
賑わってもいないけれど寂れた感じもしない。 
いい感じでしっとりと落ち着き鄙びているのである。 


 
   



 
自転車の客は少ないようで、この宿では今年は2人目だそう。
1人目はドイツ人で自転車で日本を回っている若者だったそう。
住む地域が違えば日本人ですら殆ど知らないような温泉地をどうやって知ったのだろう?


そういえば、もう少し出雲寄りの大田では三瓶山に登山に行くというアメリカ人がいたなあ。
三瓶山なんて日本人でもこの地域の人しか絶対知らないだろう。
外人の間で共有されている日本観光の情報はかなりコアで国内にあるそれとはかなり違っているのだろう。  

 
 
   
 
早くチェックインし、温泉に浸かり、早めに夕食を終えた。
それは海沿いまで行って夕日をのぞむため。
そう、この日も快晴だった。


多分だけど、海に沈む太陽を2日連続で見たのは生まれて初めて
出雲に来るとこういう希有な偶然に出会う。 
単なる偶然だと思う、でもやっぱりまた来なきゃいけない気になる
 
   
快晴の出雲を楽しみ東京に帰った次の日、我慢していたように山陰が梅雨入りした。

 
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20160608

神々の出雲



島根に来た。
去年まで知らなかった島根らしい風景。
緑の山々、青い水辺に石州瓦の町並みが美しい。
 
 

  


  

自分は信心深いところがあまりない。 というかなかった。
実は神社に行ってもシンパシーを感じないと手すら合わせ無いで帰ることも多い。

 
 
去年はじめて出雲に降りた
出雲だからといって特に神のことを意識するでもなく動きまわった。
それでも出雲は”縁の国” というが、いろいろおもしろい事が起きた。 東京に帰ってきてからも。
また来たのは、おかしく聞こえるかもしれないけど、呼ばれたような来なきゃいけない気がしたから。


 

 
当然だけど神話にも、全く興味すらなかった。
興味が無いどころか、鼻で笑って左から右に受け流していた。
なのに今は神道の歴史、そして神話に出てくる神様、親子関係などを興味を持ってしまった。
天皇が日本を統一する前の神様が統べていたいたという時代のこと

 

石張りの古墳は島根を中心に日本海側のみで見られる四方突出型墳丘墓 
前方後円墳が広まるずっと前、紀元2~3世紀に日本海側で数十年の間にたくさん作られた後、
紀元250年あたりからパッタリと作られなくなった古墳型。 
魏志倭人伝にはその頃の倭国は戦乱で乱れているとの記述がある頃である。
大和朝廷によって滅ぼされたのか? 古事記や日本書紀にある国譲り神話と話が重なる。
 

 

  



   
 

  

日本三大そばらしい。 長野の戸隠そば、岩手のわんこそば、そして島根の出雲蕎麦
始めた食べた。 旨い。 これは間違いなく店が良かった。
蕎麦は蕎麦だけど、いい歳になってもはじめての体験をいとも簡単にくれる旅のいいところ。
  
  
 



   
 
 
  
  

  


   
 
 

 
出雲大社そのものよりもシンパシーを感じるのは本殿の裏側にある素鵞社。
裏側にまで来る人は少なくひっそりとした社が高い場所にある。 
素戔嗚尊を祀る社に手を合わせた。

 
 
  
 
 
  


  
 
国譲り神話の舞台”稲佐の浜”
もうすぐ夕日という時間、自転車を止めるとにゃんこ先生が私の方にテコテコっと寄ってきた。
弁天島をバックにこの表情。 ほんとうに役者
 
 
 

  
一日完全な快晴だった。
”出雲”というだけあってここは雲が出やすい場所なのである。 
そしてこの場所の快晴日は年間20日にも満たない。
そんな場所で海に沈む夕日を見られた。

  

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20160603

VIGOR


 
ラッキーバンブーとか言う観葉植物。
普通半年くらいで枯れるらしいが、5年近く生き続け背丈も中学生くらいになった。


大抵、 幹に2つ枝で売られているのだけど、下の方の枝に水や養分が集中するためか上の方の枝は殆ど成長しない。 そのまま放っておいても上の枝は細り、そのうち幹がネクローシスに陥り全体が朽ちる。

   
  
  
 
 
   

枯れるを待つならと上の小さな枝を切って水に刺した。 
僅か4日で根がにょきにょき伸び出し、2週間後には立派な根が続々と生えてきた。
環境が悪かったばかりにくすぶっていたパワーが一気に吹き出したように見えた。


何故そんなことをしたかといえば、それまでも植物の生命力を目の当たりにしていたからである。  
 
 
 

 
枝からポロッと落ちる更に小さな枝を拾っては土に刺していた。
落ちた小さな枝を拾うとひっくり返ったまま土に向かって根を伸ばしている健気な姿を見てからだ。
とは言っても15年も前に貰って10年は水すらやらず、外に出しっぱなしでやせ細り成長しないが死んだ気配もなかったそんな奴。 そんなほったらかしの奴の健気な姿に感動して5年前から太陽光、水、養分をくれてやった途端みるみる成長を始め一本の木のようになった。


ここにあるのはすべて一つの木から落ちた枝を挿し木してできたクローンである。 面白いのは枝が2つに別れ更にそれぞれの枝がまた2つに分かれていくそのタイミングが鉢を異にしても同じなのである。 


その名は”金のなる木”  
これを見るとなんとなく力が湧く。



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20160416

伊 江 島



フェリー船上より望む。 
本部の海岸沿いを走るといつも気になっていた島影。 
沖縄本島から北西に9km、フェリーで30分、中央の突起している山が特徴的な伊江島である。 
71年前の今日、1945416日 はこの島にアメリカ軍が上陸した。

 
 

 
 


アメリカ軍が上陸し、わずか6日間で日本兵2000人、住民1500人ほどが犠牲になった。 残っていた島の住民4000名の4 割が無くなったことになる。  住民の中にはアメリカ軍から敗走して来た日本兵に斬殺されたものも少なからずいる。


沖縄本島地上戦においてあったことのすべてがここにあった。
”沖縄本島の縮図” と言われる所以である。
  
  



 








”タッチュー”の愛称で呼ばれる伊江島のシンボル城山
”タッチュー”とは沖縄の言葉で、先端がとがってるものという意味。
標高172m、その先っぽに登れば文字通り360度の視界が広がった。
 
  
  

 
アシャハガマと呼ばれるガマ(洞窟)に入った。怖いというのか、胸を押されるような気持ちだった。
アメリカ軍が侵攻してきた時に多くの民間人、軍人が逃げ込んだ場所である。 土の地面には今だに当時の茶碗の欠片などがそこかしこに落ちていた。 この中には約150人の民間人が避難していたのだ。 そこへ米軍に追われた日本軍が逃げ込んできた。 迫るアメリカ軍に対して戦陣訓に従い日本兵の持つ爆雷で家族ぐるみの自爆を余儀なくされ、一瞬にして100人以上の命が失われた。
 
 


 
 

 
 


湧出”ワジ”と呼ばれる景勝地
この崖の下からは清廉な水が湧き出る。
昔は島人の大切な水場。
いまこの水は伊江島名物のイエソーダに使われる

 
 

 
 


戦後、焼け野原で捨て置かれていた伊江島にある日突然アメリカがやってきて、農業を営んでいた人たちを追い出し島の半分を基地にしてしまった。 朝鮮戦争勃発の時である。 いくらかは返還されたが今でも1/3はアメリカ軍基地が占めている。
 

戦時、日本軍がわずか周囲23kmほどの島に3本の滑走路を作った。 今でもその滑走路はあり、1本は伊江島飛行場の民間滑走路、後の2本はアメリカ軍用滑走路であるが、この補助滑走路は一般人も立ち入ることが可能な滑走路だった。 




 
 

 
 


島の南西の海岸線にはたくさんの洞窟がある。
海上からは大きな岩で死角になっているため戦時中は村民の防空壕になったニィヤティヤガマ。 多くの命を守ったことから”千人ガマ”とも言われます。 ここは村で暮らす人の聖域でもあり拝所でもある。

  
沖縄戦が始まった当時はサイパン島やレイテ島から続々とこの海に1300隻ものアメリカ艦船が集結し、海を覆い尽くすほどだったとされる。 軍艦からの艦砲射撃に2000機もの航空機に依る空襲が行われ地形が変わるほどの激しい爆撃が行われた。
   

この洞窟の中からは海を望むハート型の穴。
艦船が集結していたのは正にこの穴が穿たれた南の方向。 
当時どの様に見えていたのだろう。 
 
 
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