20150326

五 條 に て



大阪唯一の村、千早赤阪村の先、金剛山を主峰とする和泉山脈を超え奈良県は五條市に下り降りる。 




何故に五條かといえば、九州の旅で行った島原がきっかけである。 というのは島原の乱の主因になった殿様、松倉重政が島原の領地を与えられる前に治めていたのがこの五條だと知ったからである。 島原ではその残虐性から悪名高き殿様として知られるけれど、こちらではずいぶん功名高い殿様として知られていると知り来てみたくなった。 

  
 


 





こんな場所にこんな立派な町並みが残っているとは全然知らなかった。
そして、観光地として盛り上げるでもなくこのような町並みが当たり前であるかのごとくあることが、関西の歴史深さを思い知らせてくれる。 
 
  
ここ五條は吉野川の北側 、伊勢街道、紀州街道、熊野街道など、街道の結節点であり、吉野川、紀ノ川の水運によって開けた交通の要衝であった。  そして松倉重政が1608年に二見城に入ったとき、五條と二見の間の中間に新たに造った城下町がこの街並みである。 税金を免除し商業の振興を図り、近隣の商人を呼び寄せるなどして発展を促したことが江戸時代に五條の町場が大きく発展するきっかけとなった。

  
 
  
 
  

 
「大正時代からやから100年位やってるなあ。
家が歪んでしもうて、扉が閉まらへんねん。 扉も斜めに作ってもらわんと。」

 
  
 
甘さ控えめ、きな粉がまぶしたあるよもぎ餡入り団子が実に美味しかった。



  
  
  


五條の古い町並みから更にならの山奥に入ったところにあった。
山肌はピンクに染まり、谷筋全体を覆うようにしてある梅の香。
まさに桃源郷である。
 
 


  
   

  
  





賀名生梅林の梅まつり。 

こちらの人は梅まつり=この桃源郷然としたイメージが直結するのでしょうか? 私にゃこの桃源郷を梅まつりと表現するのはどうなんだろうか?と思ってしまいました。 というのも関東近辺で梅まつりといえば、吉野梅郷や越生、そして小田原等の梅まつりを連想してしまってそのレベルのイメージしか湧いてこない。 はっきり言うとレベルが違う。 道のすぐ横、梅の木の下には蜂の巣箱があって、この春の陽気に誘われ蜂がブンブン飛んでいる。 梅まつりの旗は立てているけど、観光客を呼ぶ気があるのか無いのか? そういうところもいい。


 
山肌にへばりつく家々とその間をうめつくす梅の花。 とってつけた人工感もなくごく自然にこの景色が出来上がっていて、やはり一言 ”桃源郷” というのがふさわしい。
 
 

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