20150330

自転車博物館


 
あちらの方に見えるこんもりした丘。
これは只の丘にあらず。 日本最大の墳墓、仁徳天皇陵のサイドショットである。 
そしてすぐその側に自転車博物館はある。

 
 

 
堺の地場産業の一つ自転車部品のシマノが公益財団を作りその財団が運営する1992年に開館した日本で唯一の自転車博物館。 名前は”自転車博物館” だが、”シマノ・サイクル開発センター” が正式名称である。
 
  
  
  

 





1818年からの自転車の歴史の実物展示。
ゲイリー・フィッシャーがダウンヒルのためにビーチクルーザーを改造していた後、1977年にジョー・ブリーズが完成させたオフロード専用フレーム”BREEZER” も展示してある。
 
 
 
そして、めちゃくちゃ懐かしい自転車が展示されていた。
マックスコメンサルデザインのSUNN duall。 10年以上前ですけどTech inのフロントフォークに、2ポットフローティングディスクのMAGRA Gustav を奢ったセットで乗ってました。 結局クルマに自転車を載せて移動すると必ず行き帰りで渋滞にあうパターンがアホくさくなってMTBは乗らなくなったのだけど。

  
 

 
記録に残る自転車レースの最初は1868年パリで行われた短距離レース。  そして1893年トラックレースで初めての世界選手権が開催された。 このビアンキは、1992、1993年世界選手権ロードレースで優勝を飾ったジャンニ・ブーニョのもの。
 
 

ここで気付いた。 そういえばファウスト・コッピ、マルコ・パンターニもそうだったように、このジャンニ・ブーニョもビアンキ乗りのスターは皆ヨーロッパでは珍しい右前のブレーキである。
  
  
 


 


これまた圧巻。
収蔵庫には、展示室には納まりきらない250台が整然と並べられていた。

  
 
  
  
 

  
 
 




 
そして思いの外面白かったのが図書庫。
上の写真はパラパラめくって出てきた1990年の自転車カタログと1986年のサイスポ。


Cinelli Laser Max : ¥920000
COLNAGO C35 : 1700000 (1989) 
DeRosa 35aniv : 580000 (1988)

campagnolo Record group set : 232000 (1986)
 
 
この値段を見て驚きました。 現在の値段と変わらない。もしくは、実勢価格だと現在の円建ての価格のほうが若干安い? ちなみに1986→2014年消費者物価指数はフランスで1.74倍、日本では失われた20年によって1.16倍の上昇。  この事実は自転車やパーツの価格はその他物品に対してかなりの価格下落をしていることを表してます。 カンパニョーロなど高級品であった品々はシマノを始め台湾の安価な部品によって、かなりの競争を強いられ疲弊した事は間違いない事実でしょう。  ただ、スイスの時計産業に見るにつけカンパはじめイタリアの自転車産業には別の方向転換もあったのではないかと思わざるをえません。 70年台の日本製クオーツ時計によるクオーツショックでスイス時計産業が瀕死の重傷を負いながら、機械の正確性といった性能ではなく、デザインと伝統、工芸品としての付加価値を載せた製品への方針転換で見事に復活を果たしましたから・・・



Related to:
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20150326

五 條 に て



大阪唯一の村、千早赤阪村の先、金剛山を主峰とする和泉山脈を超え奈良県は五條市に下り降りる。 




何故に五條かといえば、九州の旅で行った島原がきっかけである。 というのは島原の乱の主因になった殿様、松倉重政が島原の領地を与えられる前に治めていたのがこの五條だと知ったからである。 島原ではその残虐性から悪名高き殿様として知られるけれど、こちらではずいぶん功名高い殿様として知られていると知り来てみたくなった。 

  
 


 





こんな場所にこんな立派な町並みが残っているとは全然知らなかった。
そして、観光地として盛り上げるでもなくこのような町並みが当たり前であるかのごとくあることが、関西の歴史深さを思い知らせてくれる。 
 
  
ここ五條は吉野川の北側 、伊勢街道、紀州街道、熊野街道など、街道の結節点であり、吉野川、紀ノ川の水運によって開けた交通の要衝であった。  そして松倉重政が1608年に二見城に入ったとき、五條と二見の間の中間に新たに造った城下町がこの街並みである。 税金を免除し商業の振興を図り、近隣の商人を呼び寄せるなどして発展を促したことが江戸時代に五條の町場が大きく発展するきっかけとなった。

  
 
  
 
  

 
「大正時代からやから100年位やってるなあ。
家が歪んでしもうて、扉が閉まらへんねん。 扉も斜めに作ってもらわんと。」

 
  
 
甘さ控えめ、きな粉がまぶしたあるよもぎ餡入り団子が実に美味しかった。



  
  
  


五條の古い町並みから更にならの山奥に入ったところにあった。
山肌はピンクに染まり、谷筋全体を覆うようにしてある梅の香。
まさに桃源郷である。
 
 


  
   

  
  





賀名生梅林の梅まつり。 

こちらの人は梅まつり=この桃源郷然としたイメージが直結するのでしょうか? 私にゃこの桃源郷を梅まつりと表現するのはどうなんだろうか?と思ってしまいました。 というのも関東近辺で梅まつりといえば、吉野梅郷や越生、そして小田原等の梅まつりを連想してしまってそのレベルのイメージしか湧いてこない。 はっきり言うとレベルが違う。 道のすぐ横、梅の木の下には蜂の巣箱があって、この春の陽気に誘われ蜂がブンブン飛んでいる。 梅まつりの旗は立てているけど、観光客を呼ぶ気があるのか無いのか? そういうところもいい。


 
山肌にへばりつく家々とその間をうめつくす梅の花。 とってつけた人工感もなくごく自然にこの景色が出来上がっていて、やはり一言 ”桃源郷” というのがふさわしい。
 
 

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20150322

Stelbel



丁度物心ついた頃、チタンフレームというのが出てきた。 何故惹かれたのかよくわからないが、とにかく無骨に光るチタンフレームという存在に惹かれた。 当然その能書きに出てくるTIG溶接という言葉にも反応した。  ガキンチョの頃なのでその意味までは分かっておらず、ありのままその”ティグ”という語感を受け入れたというところなのだけど。
 
 
 
そのTIG溶接のフレームが日本で初めて作られたのは1980年のVIGORE。 そして自転車の本場イタリアではTIGウエルダーのパイオニア的人物Stelio Belletti1973年に創業したブランドがStelbel である。 私がクロモリの旧車を求めるなら2つのブランドしか考えていない。 どちらも当時のものは生産数も少なくあまり市場には出てこない。 その内の一つ、Stelbel が最近25年ぶりに復活した。 80~90年台、台湾の安価な自転車に押されてイタリアの多くの自転車工房が消滅した。  Stelbel もその一つである。 


 

 
 


自転車業界ではMASIMOTOBECANEGitaneなどかつてのブランドが台湾やアメリカに買われ復活してるからブランド復活自体が珍しいわけではない。 ただ、それらは結局残っているのはブランド名だけでまるっきり別物に変身しているのが普通である。 Stelbel の復活はそれらとはまったく違う。 資本関係まではわからないのだけど、今でも御年70歳の元の創業者は週に一度はオフィスに顔を出し、フレームの制作はすべての工程をイタリアで行っている。 聞けばすべてをイタリアで行うことがStelbel ブランドにとって一番大切なことなのだと返してきた。 最後の仕上げだけをイタリアで行いmade in Italyを掲げる名ばかりのイタリア製フレームが横行する中、こういうスピリッツを大事にすることはなかなか立派だと思いました(たとえ台湾製のほうが精度が高かったとしても)。 もちろんStelio Belletti が創りだしたTIG溶接の当時のどのフレームとも違う個性が受け継がれ、クラシックスタイルに、そしてまたそれらをリファインし現代的にしたバージョンでStelbel を復活させている。 
 
  
 
Modello Integrale

ラグドフレームの時代のどれとも違う革新的なフレームと言われた。
TIGによる自由なジオメトリー 、個性的なクラウン肩、そしてドロップアウトなんぞはレトロフューチャーである。 そんな過去生産していたフレームが過去の形そのままで限定復活する。 しかもお値段も高くはない上にユーロ金融緩和で円換算だとじんわり安くなってきているのもいい。   

  
 

 
 
  
 
クラシックスタイルのModello Integrale 以外の新しいモデルもある。
40年前デザインされたレトロフューチャーをイタリアンが現代解釈したらこうなるという感じ。
イタリアンって往々にしてデザインのためのデザインします。 理屈じゃないよカッコだよって。 日本人は自信持ってこんなこと出来ないから無い物ねだりでこういうの嫌いじゃない。 いや、はっきり言って憧れる。 それとフェラーリやメルセデスなんぞも過去のデザインモチーフを現代的にアレンジして取り入れてますが、自転車でもこんなのあったのねってちょっと感動しました。 もっともナットは締めにくそうですし、チェーンステーは16X30の角材みたいなものんらしいから、乗り心地とか色んな所がどんなのかわかりませんで、イタリア物のお約束 ”初物は危険な香り” もプンプンしてます。 
 
 
 
最後にちょっと面白かったエピソード。
「このフレームって好きな色に塗ってくれんの? 例えば黒に近いようなディープなソリッドネイビーが好みなんだけど、どないなん?」とメールで聞きましたら、その答えがイカしてました。 「ロゴが黄色は決まってるから、お宅がいうディープなソリッドネイビーならPerfetto だ」 って。 黄色いロゴに合わない色は塗らねーよってことだそうです。 変に譲らないとこイタリアっぽいなーって。



Refered to:
http://www.stelbel.it/ 
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20150318

雲仙の格好いい道


 
しょんぼり気味の前半戦から山を降りる後半戦。
カッコいいやん。 雲仙の道
 

 

 
 

 
山の斜面をくねる大蛇のような位置取り、 
いちいち路面にかっこいいアンジュレーション。 かと言ってバンクでもないというか逆バンクもあったりしてワザとなのか偶然なのか? 私は知ってます。リキミなくかっこよく出来る人は天才です。 やはり九州にはかっこいい道がおおい

 
 

 
 

 
棚田なんぞをかすめ海が見える木津の街を見下ろす道に出てきたそこからは、またカッコ良いという程じゃないがいい道がある。

 
 





雲仙鉄道(温泉軽便鉄道)の廃線跡がサイクリングロードの様になっている。 廃線跡らしい切り通しや、列車のトンネルらしい馬蹄形の光の出口。 もっとも車も通るのでサイクリングロードのようで普通の道でしか無いのだけれど心地いい快走路。
 
  


  
 

 
小浜温泉、島原温泉への玄関口諫早からは車上の人。 そして長崎市内。 
あちらに見えるは日本最古のアーチ型石橋のめがね橋。 何度か大水で流されているが江戸初期だから400年近い歴史がある。 
 
  
 

 
 

  
長崎の代表的な料理に卓袱(シッポク)料理というのがある。  卓袱とは卓のことでオランダやポルトガル、 中国の料理を巧みに取り入れ和風にアレンジしたものを卓を囲んで食べる。
  
 
そういえば中華街があるのは長崎に加え神戸や横浜。 長崎は清の時代から出島との交易を行っていたから。 では、神戸、横浜は? 江戸末期の日米修好通商条約でいきなりの開国からである。 いきなり欧米人たちがやってきて横浜、長崎の山手や神戸の北野で居住をはじめ、貿易をスタートするとなっても日本側にはそれに対応できない。 ここで活躍することになったのが、早く西洋文化に接していた華僑たち。 同じ漢字圏で日本人とは筆談でもやりとりが出来る。 よって西洋人とのパイプ役として華僑のサポートが必要だった。 今も、かつての欧米人たちの居留地に隣接する形で中華街があるのはこうした事情によるのだそう。
 
 
平戸でのオランダ交易の後、出島があるこの長崎が日本の海外交流の最先端だった。 カッコいい道を歩んできた長崎。


Related to:
http://feticizm.blogspot.jp/2015/03/blog-post_10.html
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20150314

島原から雲仙



島原に降りた。
島原城のあちらには雲仙岳が霞んで見える。
 
 
驚くのはこういった比較的マイナーと思われる観光地にまで東洋系の観光客がたくさんいること。 そしていつも思うのは、観光客誘致を言う前にこういうアグリーな電線は何とかならんのか?と。 せめて、駅から島原城に伸びる道沿いだけでも・・・


電線は経済産業省、通信ケーブルは総務省、水道は厚生労働省、道路使用は警察庁・・・縦割りの弊害
 
 
  

   
 

  
 


島原武家屋敷を特徴付ける ”湧水”と”石垣”
常に水音がしているって素敵です。 石垣に音が反響してることも効いてるのかな。
水流れ、鯉泳ぎ、猫走る。 江戸時代にタイムスリップしたかのような。
 
 
 

 
島原の名物はなんじゃと聞けば元祖具雑煮 姫松屋
1637年、島原の乱で天草四郎が兵糧として餅を集め、その他山海の具を煮込んだことが始まりとか。 餅7個腹に収める。


 

 
雲仙岳噴火大火砕流の地でもある
取材競争が過熱し報道関係者が火山学者の存在を免罪符として、山と火砕流を正面から望める警戒区域内に入った。 報道関係者は避難して無人となった人家に侵入するなどトラブルを起こしていたため警戒にあたった消防団員、警察官が引きずり込まれる形で43名もの犠牲者が出たとある。 
 
 
 

 
 

 
土砂によって埋まった家々が今もこうして展示されている
こんな展示があるなんて日本人でも知る人は少ないでしょうけど、あちらに見えますのはこんなマイナーなところにも団体で来ている中国人観光客。 
 
 
 

 
 







 
 


 
火砕流の爪あとに住みたがる人も少ないのか、そんな感じの緩斜面を雲仙に向けて登りだすと結構長かった。 てっぺんの仁田峠まで20kmちょっとありやがる。 


晴れなのに爽快感を感じないのは、景色が見通せないせいから。 大陸に近いし黄砂やらPM2.5やら影響をうけやすい。 実際のところ雲仙の樹氷は近年空気の汚れによる黒ずみが顕著だとか。 国内旅行にもチャイナリスク 







 
自転車で行ける雲仙のてっぺん仁田峠。 
何故かわからんが島原、雲仙という耳触りのいい地名に憧れをもってました。 
実際にはキリシタンの楽園時代から、島原城主、松倉重政によるキリシタン弾圧。 この雲仙地獄の煮えたぎる熱湯をキリシタンへの拷問に使ったなどの記録もある。 キリシタン弾圧が後に天草四郎を担ぎ出し島原の乱のきっかけとなったなど血なまぐさい話の舞台でもあるのだけれど、五島のように沢山の教会があるでもない。 また、”うんぜん”という読みは”おんせん” が由来というが、温泉街も風情があるでもなかった。 なんとなく素敵な何かに出会えそうな期待が大きすぎた島原、雲仙



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